想うということ

Wednesday, March 16, 2011

one-thing2 いつもと変わらない朝。 ベッドに入ったままiPhoneで一通りメールチェックをして、友人に他愛ないSMSを送った。 寝起きの重い身体を持ち上げてキッチンへ向かう。 水を飲み、ヨーグルトを食べて、顔を洗い、服を着替えてアトリエへ移動。 すべていつも通りだ。 外は少しだけ曇っている。 アトリエに入ってくる光は黄色く明るかった。 友人からSMSの返信。 女同士の気の置けないやりとりを続ける。ああ楽しいなぁと感じた。 ふとアトリエで先日の撮影のためにむき出しになったままの作品数点が目にとまる。 もう一ヶ月近くこの状態で放置してあって、毎日片付けなくてはと思いながらもずっと放ったままだったが、なぜか急にやる気が出てプロテクターに次々と作品をおさめた。 ビスもすべてとめ、木箱のふたもして、壁にきちんと立てかけた。 それから昼ご飯を食べた。 何を食べたかは覚えていない。 午後からはもうじき始まる個展に向けた最後の作品に打ち込む。 この絵が完成したら個展に出す作品が全て揃う。 音楽を聴きながら、描いたり眺めたり、とにかく仕事に集中。 ほどなくして、その時が来る。 アトリエが揺れた。 地震なんていつもの事。少し待てばおさまるだろうと冷静に振る舞う。 でもいつもと違った。 一向に止まない揺れに事態を悟った私は、アトリエを飛び出して廊下に置いてあった先日完成させたばかりの個展のメイン作品である120号の元へ走った。 必死で絵を押さえた。 しばらくの時間が過ぎたけど揺れは止まなかったので、一瞬だけ手を離して玄関を開けに行った。 外には家から飛び出した近所の人が数人見えた。 どれくらいの時間が経ったか判らないが、激しい揺れが治まり、作品も無事でほっとしながらアトリエに戻った。 午前中私に虫が知らせたのか、気まぐれに小作品は片付けていたので問題なかった。 もうじき始まるアートフェア東京に出品予定の100号作品が棚の上から落ちかけていたが、運良くカーテンに引っかかり、宙で止まっていた。 絵の前には脚立があり、もしカーテンに救われずに倒れ込んでいたら、ひどい傷がついただろう。 奇跡的としか言いようのない恰好で100号作品は事なきを得た。 亡くなった祖父母の家を私が仕事場として使わせてもらっているのだが、彼らが守ってくれた気がしてならない。 それくらい私が急に作品を片付けたり、100号が宙で止まっていたりする事が不思議なのだ。 祖母は私の絵が大好きだった。 家族は全員無事だった。 家のものも何一つ壊れなかった。 友人も皆無事だ。 でも家の外の事、特に東北地方の被害については言及するまでもない周知の事実だ。 3月11日14:46を境に、日常はいとも簡単に崩れ去り、非日常という現実が用意された。 テレビで続々届く衝撃的な映像を見ながら、フェイスブックで海外の友人に無事を伝える。 さすがにみんなのレスポンスが早い。 世界中が日本で起きた事にショックを受け、テレビやネットにクギ付けだった。 デンマーク人のいとこたちは、彼らの仕事が終わるなり、急いでメッセージを私に送ってきた。 職場の仲間や友人たちも「日本にいる君のファミリーは大丈夫なの?」とすごく心配してくれていたそうだ。 いとこたちは、「サイやサイの家族が無事だと彼らに伝えられるのが本当に嬉しい。」と言ってくれた。 原発の問題は日本以上に海外ではシリアスに報道されている。 この数日はさらに欧州の友人たちからのチアアップのメールが増えた。 みんな心から心配してくれている。 仲の良かったフレンチジャーマンの女の子からのメールはこんな風だ。 「hi Sai、 私はあなたやあなたの家族、そして日本の人たちの事をすごくたくさん考えてるよ。 私たちは常に何が起こっているかについて情報をアップデートするようにしているけど、今はただこれ以上悪くならないようにって祈る事しかできない。 私に何か出来る事があったらただただ私に知らせて! あなたはいつだって私に電話できるし、メールを書いてくれてもいい、もし事態がもっと悪くなればベルリンの私の家に家族と一緒に来たっていいんだからね!OK?!」 ポーランド人の女の子は「被爆から身体を守る方法を調べたわ!」と言って、いろいろ書いてくれたり。 ベルリンやパリで出逢ったいろいろな国の友人たちが毎日たくさんの温かいメッセージをくれる。 嬉しくて涙がぼろぼろこぼれる。 私が出会った人たちが、私を通して日本を身近に感じ、気にかけ、他人事ではなく今回起きた出来事に真剣に向き合ってくれているのだとしたら、苦しい思い出も多い私の四年半の欧州滞在は少しでも意味を持つのではないか。 白人社会においてどこの馬の骨とも判らないアジア人の私なりに、精一杯彼らとコミュニケーションしてきた事が結実し、四年半が決して無駄ではなかったのだと思える。 一人だけデリカシーのないつぶやきをフェースブックでしている友人がいた。 「金曜の夜クラブに行ったら長蛇の列だったけど、ドアマンに自分は日本人だと言ったらかわいそうがってすぐに中に入れてくれたよ!何か?」 といった内容だった。 彼はドイツ生まれドイツ育ちの華僑で見た目は完全アジア人。ウォン・カーウァイの映画に出てきそうなひょろっとした妙に色っぽい男の子だ。 しかしフェースブックでお互いが発信している内容をいつでも見れる状態で、自分の友人一覧の中に日本人である私がいる事を忘れてたのかしら。 ジョークのつもりでも今は面白くない。 最初のデートに30分も寝坊して私をレストランに待たせるような男よ。気取ったインテリだけど、やっぱり鼻持ちならないヤツ!!と思わず電話で友人に報告してしまった。 でも彼以外はみんな、本当に優しいです。 ちなみに彼とはその後デートを繰り返す事はありませんでした。(当然!) 私の大切な友人の一人の実家が岩手にある。 被害が比較的小さな地域に彼の両親は住んでいるのだが、東京に住む彼は地震発生当初は少しも連絡が取れずにきっととても憔悴していた事だろう。 地元に残る彼の友人が車で家に向かい無事を確認してくれて一息ついていたが、次の日にはバイクで単身現地に向かった。 道路が数々寸断されている中で、必死で最良のルートを割り出し、普段の二倍以上の時間がかかりながらも家族の元に駆けつけた彼は素敵だった。到着後は家族や親戚の手伝いをせっせとしている様子だ。 長い付き合いの友人だけど、いつだって心優しいあなたの事が私は誇らしいよ。 凄惨な状況も目にしただろうに、それでも東京にいる私の心配もしてくれてメールの最後には「お互い元気で、会おう。」なんて書いてくれた。 生まれも育ちも東京の私にとって、故郷という感覚は海外に出て初めて味わった。 ドイツやフランスで常に感じていた事は、自分がいない間に家族に何かあったらどうしよう、だった。 また、家族に何かあったらすぐ帰る、というのが在欧の友人たちを含む共通見解だ。 たびたび起こる地震や近隣国とのトラブルの度に、ひどく遠くに住む自分の無力さをひたすら暮れていた。 現在在欧邦人の友人もたくさんいる。 彼らも今その無力感に苛まれているのが私にはよくわかる。 今回こういった状況になっているが、それでも家族の近くにいれて心の底から良かったと思っている。 こんな時だけど、個展まで10日を切った。 日常でできる後方支援はもちろんだけど、今回地震があった時に描いていた作品が展示で売れたらその売り上げの一部を日本赤十字に募金します。 2006年に描いた作品で “Let’s just make one thing we can all have when it all crumbles down”というタイトルのものがある。 すべてが崩れ落ちた後、私たちみんなが持つことのできるものをひとつだけ作りましょう。 それが今回のエントリーの画像です。何年も前に期せずしてこんなタイトルを付けてしまったのだが、私の作品の中でもかなり気に入っているタイトルだ。 ドイツに住み始めて一番最初に描いた絵で、受け入れ大学の教授に「それは君の自画像かい?」なんていわれたな。 アーティストに何ができるのか。私には私なりにできることがあると信じて。

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